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目次・記事詳細

項目 内容
書誌番号 1196057033
資料種別 図書目次
書名・雑誌名 横浜の本と文化
目次・雑誌巻号等 読書文化
大項目 言論弾圧史
中項目 言論弾圧史
小項目 言論弾圧から動員へ
ページ数/コマ数 308
本文  統制されたのは、言論だけではない。四三年(昭和一八)二月四日、県警察部は「米英音楽レコードを県下から徹底的に駆逐するため」「敵性盤は一千八百六種に上り相当家庭に秘蔵されてゐる模様があるので」「一般県民等の愛国的心情に訴へ回収の実効を期する」ことにした(23)。
 かつては出版許可のされたものを、民衆の目に触れさせない措置もとられた。横浜市図書館『昭和十九年宿直日誌』七月二七日(木)はその状況を記録している(24)。
 言論弾圧、統制から、さらに民衆動員へと、戦時体制は強められた。大政翼賛会と町内会・隣組、産業報国会と大日本婦人会など、民衆を戦争に動員する組織が網の目のように張り巡らされた。内閣情報局、陸・海軍報道部の「情報」以外は公表されず、批判の芽が残されては、というので、一九四二年九月以降、神奈川県特高課の行った言論人の検挙は、改造社、中央公論社や日本評論社、さらに岩波書店の編集者にまで検挙が広がる「横浜事件」となった。そして四四年七月一○日、内閣情報局は改造社、中央公論社の代表を呼び、「自発的に廃業」することを申渡した(25)。
 しかし、一九四五年(昭和二○)になって、米軍の空襲が激化し、新聞社や印刷所の被害が拡大すると、民衆動員の機関としての新聞や出版物も発行されなくなった。『神奈川新聞』と『朝日新聞』は「政府の新聞非常暫定措置に準拠し、神奈川新聞は朝日新聞に持分合同」「七月十一日付より神奈川新聞の題号を併記した朝日新聞を全県下の朝日新聞並に神奈川新聞読者に頒布いたします」という「社告」を七月一○日付の両紙に掲載した。『神奈川新聞』の再開は、敗戦後の混乱も一段落した一一月のことである。「持分合同」や一県一紙制の強制による「地方紙の独自性喪失」という影響は、ながく残された。
 弾圧や統制があっても、民衆の気分や感情まで動員することは困難であった。デマという形で、厭戦気分が広がった(26)。
 統制された新聞報道にもデマは紹介されている(27)。
 四五年三月、横浜憲兵分隊長松村宇市郎少佐と記者の一問一答が行われ、デマを紹介(28)。
 四五年五月、横浜市、空襲警報がでると「大の男」まで逃込むので、町内会名・隣組名・防火従事者○○と記した名札をつけさせ、隣組長の点検のほか、警察が防空壕・空地・公園・山中の入口で検問、という方針決定(29)。
 四五年七月、米軍のビラ散布が続き、「敵は某市を何日爆撃」「今度は某市」などの流言増加。県警察部が、ビラをもっていると「内務省令により三箇月以下の懲役若くは拘留又は百円以下の罰金、科料」と警告(30)(いずれも『横浜の空襲と戦災』第六巻、世相編)。


(23) 『毎日新聞』二月五日
(24) 「午後一時十分、横浜憲兵隊司令部より憲兵一名来館、陸軍省兵務局防衛課長並憲兵司令部第三課長の通諜(ママ)を示し、防諜上必要につき「日本地理風俗大系」十八巻を回収する旨申入る。」と記録されている。『日本地理風俗大系』は二九年から三四年にかけて新光社から刊行されたものである
(25) 横浜事件については、横浜空襲・戦災誌編集委員会『調査概報』第四集・「横浜事件」関係資料(渡辺悦次編集、一九七五年一○月)、笹下同志会『増補復刻版・横浜事件資料集』(東京ルリュール、一九八六年一二月)がくわしいので、本稿では省略する
(26) 一九四二年(昭和一七)二月一五日、横浜や横須賀市汐入町方面で「ザルで酒を買う老人の話し」が伝わった。「戦争は一年か一年半で終わるが、その後悪疫が流行するであろう、今のうちに小豆飯と梅干し三つとラッキョウ三つを神様に上げればいい、と口走ったまま姿を消した」というもので、戦争の早期終結を期待していた(『神奈川新聞』二月一八日) 四三年二月一三日、横須賀市汐入町の理髪職が「日本は勝った、勝ったと言っているがノモンハンでもソロモンでも負けている」と話して検挙された(稲垣真美『天皇の戦争と庶民』) 四三年二月二七日、「ガダルカナル(転進)以来戦意ニ付テハ多少遺憾ノ点」がある、と鎌倉市長が答弁した(『鎌倉議会史』記述編) 四三年九月から四四年二月にかけて、内務省警保局保安課第一係の内偵では、不穏言動は「漸次具体的に皇室に対し奉る反感不満となり、或は反戦的方面へと悪化しつつあるやの傾向を看取」と報告している(『神奈川県史』資料編一三) 四五年三月、通信院通信監督局の郵便検閲では「軍部不信、生活苦、敗戦予測」などの事例が増加した(齊藤秀夫「太平洋戦争下の県民と県政」)
(27) 四二年(昭和一七)七月、「一日から物品税が五割に上がります」のデマで、買い漁りが拡大(『神奈川新聞』七月二五日) 四三年七月、家庭菜園のじゃがいも「収穫量だけ配給米から差し引き」のデマ。県は「種芋の三倍だけ供出」と打ち消し(『毎日新聞』七月三○日) 四三年八月、市内に『アッツ島○○少尉の手記』の印刷物が流布され、厭戦気分広がる(『神奈川新聞』八月二一日) 四三年一○月、街頭の易者が「山本元帥の戦死、アッツ玉砕、前線将兵の動静、徴用工問題、経済問題」等で「造言」、四人検挙される(『神奈川新聞』一○月一四日) 四四年八月、「海岸線から一○○○メートルの建物を疎開」「学童疎開についで、老幼・要保護者は強制疎開」など人員・建物疎開をめぐるデマ(『毎日新聞』八月一五日) 四四年九月、「学童疎開」で実情を「見てきた」という「悲観的デマ」流布。中区立野国民学校では警察が検挙したが(『毎日新聞』九月二○日)、市内に復帰児童が増加 四四年一二月、まだ空襲は本格化していないが、米軍の空襲で○○方面の工場に被害、○○地区に大火災などの「流言」(『神奈川新聞』一二月二八日)
(28) 「横浜市がまだ爆撃されないのは、敵上陸に利用する心算だ」「○○の新兵器ができたとか、どこに大きな要塞ができた」「指導者階級に関するデマ(五、六年前、川崎弘子銃殺など)」「農村で、敵に上陸されて踏み躙られるくらいなら、この田は耕さぬ」「戦災者によるデマ、弱気」など。国民は「三猿」に徹して貰いたい、と松村強調(『毎日新聞』三月二五日)
(29) 『朝日新聞』五月一九日
(30) 『朝日新聞』七月二八日