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年表詳細

項目 内容
西暦日付 1860/**/**
和暦日付 万延元/2/**
内容 石川中村川尻より増徳院脇海岸迄、幅拾間、長延五百八十間を堀割り、通船に便にす、而して二橋を架す、谷戸橋・前田橋是なり、直に石川中村等に関門及番所を建設す(石川口番所と云ふ)、衛士を置き、諸役の外、印鑑なき帯刀人の出入を禁ず
宮本小一君曰
此堀割は三坂益輔の発意にて建言せしを採用されて、一万余円を費し堀割しなり、当時其説を聞に、横浜三方は海又は沼を以、囲ひたれども、山の東手一方は陸つゞきにて、不取締なり、依て、東手山下に一条の堀割をなし、是にて横浜を区画し、長崎出島の如くなしたらんには取締もつくべし、且、往々横浜盛大に赴き、外国人居留地蔓莚するとも、此出島外迄及ぶの患なしとの儀にて、此堀割をなせしとのことなり、和蘭領事、此堀割をなし、新に関門を設くるは、条約に外国人居留地周囲に塀・柵・門牆を設くべからずと云に戻り、不都合なり、何の為めに堀割を設けしやと、半分からかひ旁、書翰にて詰り越たることあり、奉行之れに答て曰、関門を東北に設けたるは、外国人の既に認めたる処にして、浪士等を防ぎ外国人を保護す、其関門前口ありて後ろ漠然たれば、是、後門より狼を容れる憂あり、堀割は山雨驟注の害を避くる為なりと、如此、計画を尽したれども、十年を出ずして外国人居留地充満し、関外山手に溢るゝに至る、当時、居民を関外に移したる処、居留地の中心の如くなり、雑居の姿となり、大に其規模の少なりしを悔ゆ、堀割は多少後来に利益を与へたり、三坂氏死して墓木拱す、今在らば何と云ん
出典 横浜沿革誌
書誌番号 1190469011
時代区分 1854-1867:開国開港期