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資料詳細
詳細情報
項目 | 内容 |
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書名等 | 横浜開港五十年史 |
巻次 | 上巻 |
著者名 | 肥塚 龍 |
出版者 | 横浜商業会議所 |
出版年月 | 1909 |
時代区分 | 1900-1922:工業招致期 |
ページ数 | 940p |
大きさ | 22cm |
件名 | 開港-横浜 |
書誌番号 | 1190481734 |
資料種別 | 1:図書 |
所蔵先 | 中央図書館 |
目次 | 横浜開港50年史 上巻 第1章 建国以来の国是 1 建国以来の国是は門戸開放‐海外の工芸学術‐漢学及仏法の伝来‐人種の優劣と国の開鎖‐日本へ帰化の仏教‐日本へ帰化せんとする耶蘇教‐儒教も日本に同化す‐外敵を防ぐの能力‐幕吏と徳川氏の祖法‐徳川氏滅亡の原因‐漢学は幕府を倒すの1原因‐勤王論と横浜開港‐横浜50年史は新日本の50年史‐商工業の勢力と政治上の勢力‐勢力伸張の正則と変則 第2章 古代及び横浜開港以前の貿易 25 新羅の貿易品歓迎せらる‐北条氏の朝鮮貿易‐徳川氏の朝鮮貿易‐官府私人の支那貿易‐鎌倉府以後の支那貿易‐徳川氏の支那貿易‐支那貿易額の制限‐灌羅貿易の短命‐秀吉家康の貿易奨励‐御朱印船‐御朱印船の所有者‐御朱印船を奉書船と改む‐外国に於る日本人の跋扈‐外国に於ける日本人町‐外国に於ける日本政府の制札‐海賊兼商業‐ 当代士族の商業‐御朱印船の発端‐秀吉と家康と朱印船の差異‐葡国貿易の衰運‐葡人の致命傷‐西班牙葡萄牙東西割拠‐西使と秀吉‐家康と西班牙貿易‐西班牙貿易の衰運‐英人サリスの来航‐英蘭の競争‐英人の虐待‐英人には貿易を許可せず‐アダムス等の到著と蘭人の勢力‐家康蘭船に朱印を与ふ‐蘭人追放の難を逃る‐和蘭貿易の頓挫‐貿易趨勢の変化‐蘭国の輸出入品 第3章 中古海外派遣使 79 将軍と大内との使節衝突‐将軍の使節殺害せらる‐大友宗麟の羅馬使節‐法皇に謁見‐蒲生氏郷の羅馬使節‐徳川家康の墨西哥使節‐伊達正宗の羅馬使節 第4章 中古外国貿易市場の変遷 86 九州貿易隆盛時代‐我国の4要津‐長崎港と其入質‐通商港は長崎に限る‐外人雑居と其禁制‐禁獄的居留地‐蘭人の座礼と玩弄物‐国使謁見と舞踏‐国使に直接の応答を許さず‐唐人の幽閉‐長崎は蘭人平戸は英人‐浦賀は関東唯一の貿易港 第5章 本邦蚕業の発達 102 蚕糸製造は神代に始る‐開港以前に於る蚕業の盛衰‐蚕業地の変遷‐生糸改良の端緒‐小野組と古河市兵衛‐工部省の製糸試験所‐冨岡製糸所‐宮中御養蚕‐二本松製糸場‐新町紡績所‐上毛蚕糸改良会社‐製糸場の勃興‐蚕学の嚆矢‐蚕糸講習所‐発明品の続出‐桑畑反別‐繭産額‐生糸産額 第6章 徳川氏対外政策の変遷 119 家康が英人に与へたる貿易免許‐家康が英国王に与へたる書翰‐英人アダムスの優遇‐蘭人ヤンヨースの優遇‐日本は万国人民の保身所‐呂宋大守の書翰‐呂宋大守日本商船の制度望む‐家康の返書‐秀忠の返書‐慶長中家康が外人を優待したる例証‐将軍家光の鎖国政策‐寛永13年の鎖国令‐親戚朋友の交通禁止‐婦人の身体検査‐ 5代将軍綱吉‐新井君美と羅馬人‐将軍吉宗の西学採用‐寛政3年の斥攘令‐所謂寛政令‐水野出羽守の斥攘‐英艦不意の入港と英人の暴行‐奉行の自殺‐高橋作左衛門の外船打払建策‐文政8年の無二打払令‐蘭学の頓挫‐水野越前の沿海守備‐水野越前の失政‐天保の薪水令‐阿部伊勢守の全権‐薪水令後渡来の外船 第7章 徳川氏対外政策新紀元の1 174 幕吏警醒の時期到着‐和蘭王の書翰‐幕府よりの返翰‐黒船4隻浦賀入港‐外船速に此地を去るべしとの使命‐満都の混雑沸鼎の如し‐相模湾警衛の4藩‐国書は皇帝大臣の外関与を許さず‐彼我の警戒‐浦賀に於る両国使臣の会同‐米国大統領の書翰‐無礼なる幕府の返翰‐米使の浦賀出発‐将軍薨去の通牒‐米使の琉球出発‐大船製造禁止令の廃止‐ 諸大名の配置‐米艦再び相模湾に入る‐米使直ちに江戸に向はんとす‐アダムスと林大学頭との面会‐応接所を横浜と定む‐横浜に於る両国使臣の会見‐幕府の答書‐米国水夫の葬儀‐米国政府よりの寄贈品‐宣教師の不法遠足‐ペルリへの答書‐清人羅森の詩‐米使3港を開かんと迫る‐函館開港の期‐幕府より米使へ贈品‐米使の幕吏招待‐ペルリ条約の記名調印‐ 幕吏の米使饗応‐サラトガ号の先発報告‐米使の神奈川出立‐吉田松陰夜半米艦を訪ふ‐松蔭乗船を拒まる‐米使函館到着‐米官と奉行遠藤との問答‐奉行米使の要求を拒絶す‐事情差や疏通す‐米使と松前勘解由との面会‐幕吏の怠慢‐下田に於る両国使臣の面会‐下田に於る付加条約‐米艦乗組員38上陸を固辞す‐米使の下田出発‐露使の長崎入港‐露国の国書と幕府の使節待遇‐ 露使憤懣書を奉行に投じて去る‐露艦の長崎再来と応接委員の遅着‐日本委員露使の無礼を咎む‐露使に与へたる我が返翰の大意‐露艦長崎を去る‐露使談判地の内定‐露艦大阪に入り転じて下田に向ふ‐露艦ジヤナの難破‐露使の窮状‐ジヤナの修繕地決定と沈没‐下田に於る布?廷条約‐日英修交条約‐米使ハルリス下田到着‐下田奉行と米使面会期日の問答‐ 幕吏惣領事の駐剤を否認す‐玉泉寺米使の宿所となる‐米総領事館使丁雇ひ入れ‐近海測量の可否‐阿片の厳禁‐公館番兵廃止‐下田奉行へ全権委任‐領事裁判の新設‐米総領事の3要求‐安政4年の下田条約‐国書直進と重大事件陳述の要求‐米使謁見の達書‐徳川斉昭等外使謁見に反対す‐米使下田出立江戸に向ふ‐米使の入府日誌‐米使の入府と将軍の贈物‐ 国書の謄本‐米使の謁見‐米使の演説2時間‐外国公館の治外法権‐米使の要求に対する幕府の答辞‐米使提出の16箇条‐蕃書調所第1回の全権会合‐蕃書調所第2回の全権会合‐蕃書調所第3回の全権会合‐蕃書調所第4回乃至第8回の会合‐蕃書調所第9回及第10回の会合‐条約勅許願と堀田等の上京‐ペルリの武的談判とハルリスの文的開導‐ 米艦小柴沖に投錨す‐神奈川に於る仮条約書調印‐堀田の果●と井伊の決行‐5箇国通商条約調印‐国交上道理と武力‐瑞西条約‐葡萄牙条約‐普魯士条約と3港開放‐普国と締約の1蹉趺‐堀織部正の自殺‐普魯士条約調印 第8章 徳川氏対外政策新紀元の2 330 横浜は外人の避難地‐陸上警衛の本部‐横浜神奈川柵門見張番‐入関規則‐和親の撹乱と腰間の秋水‐横浜警衛役‐市在取締及定廻‐自身番‐英式調練‐紅葉坂武器庫‐小筒組及別手組‐八王子1000人隊‐警衛隊‐外兵の配置‐県兵隊‐藩兵の警衛廃止‐取締員‐邏卒‐邏卒を巡査と改む‐居留地取締‐川崎程ヶ谷間の取締‐両駅間番兵の廃止‐ 遊歩新道‐里程の争論‐幕府の注意と仏人の3要求‐外人路上の危険‐外国使臣身辺の護衛‐外人に対する通路の警戒‐外人通路の選定‐外人通行制限‐外人夜中外出見合の勧告‐英使の愁訴‐浪士の横行と衛士の増加‐江戸湾防備の端緒‐浦賀番所と奉行所‐浦賀台場‐走水番所‐観音崎砲台‐松平隠岐守と神奈川海防‐横浜運上所の御用船‐ 幕末の軍艦‐砲台及陣屋‐外船入港の警戒‐密商其他の取締‐横浜外兵駐屯に関する吾参政の書翰‐居留外人の危険‐順道丸神奈川着‐外人の居留置寵域‐英仏軍艦横浜入港‐浪士横浜襲撃の報‐外兵駐屯請求の好口実‐江戸横浜物情騒然‐水野●雲の権道‐飛騨守外兵横浜駐屯を許可す‐外艦馬関に向はんとす‐外艦約に背きて馬関を襲ふ‐ 難題続出‐国費を以て外国兵営を建つ‐小舎掛料5万3千両‐英兵増員‐英兵一部の撤退‐仏兵の駐屯‐我の撤兵請求‐外兵の退去‐英仏兵営の無地租無家税‐露国海軍士官の遭害‐露使ムラビヨフの持重‐仏国領事館使丁の遭害‐仏国領事との押問答‐英仏領事の難題‐和蘭人2人の遭害‐懸賞の罪人捜索‐ヒユスケンの遭害‐米使の同情‐ 高輪東禅寺襲撃‐浪人の襲撃と米使好意的の注意‐英使の詰問書‐幕府の答弁書‐兇徒の心情‐防戦士人へ英使の贈物‐東禅寺第2の兇行‐兇人は護衛の士人‐英使の談判‐護衛怠慢の罰‐英使の不満‐閣老の弁解‐第2東禅寺事件遺族の扶助金‐生麦事件の償金‐生麦に於る英人殺傷‐生麦事件に対する薩藩の答弁‐生麦事件に関する外国奉行と英公使の問答‐ 英使最後の照会‐英国軍艦の突入‐償金10万磅を払ふ‐英艦薩摩湾に入る‐英艦に対する薩摩の軍略‐英薩2軍の激戦‐生麦事件の終局‐仏国公使館付士官の遭害‐浪人御殿山公館に放火す‐仏国士官の遭害‐仏使温和の挙動‐巴里へ特派の謝罪使‐被害者の遺族扶助‐英国士官の遭害‐犯人清水清次の豪胆‐仏国水兵の遭害 第9章 徳川氏対外政策新紀元の3 476 造船製鉄所の始‐佐賀藩製鉄器械の献納‐横須賀造船所の濫觴‐横浜製鉄所成る‐横須賀と石川島との争‐両製鉄所仏国へ抵当‐横須賀製鉄所造営中止‐両製鉄所回収‐新政府造船所を引継ぐ‐鎮守府を横須賀に置く‐造船術の進歩‐薩摩鞍馬の建造‐横浜製鉄所の建設費‐横浜製鉄所の払下‐祝砲交換の請求‐祝砲の答礼に麻上下‐ 祝砲費を外国使臣に請求す‐祝砲の手続‐蕃書調所‐外人と富士山‐ケムフルの富士山評‐英使の富士登山‐同勢一百馬三十‐両都両港開始延期‐両都両港開始の上申‐両都両港開始の通知‐大阪に於る外国使臣将軍謁見‐外国使臣優待規則‐両都1港開始の達書‐外人江戸住居規約‐開市と開港の区別‐江戸遷都‐遷都の原因 第10章 京幕2勢力の離合 541 家康の外威希望‐家康薨す‐僧天海と崇伝との争論‐家康神号宣下‐秀忠の女入内‐女御降誕と中宮御所御条目‐公武の衝突幕府の強圧‐御水尾天皇御譲位‐家光の上洛‐家光の参内‐寛永寺と輪王寺宮の取立‐僧天海の権謀‐家光の挙動に対する諸説‐東照権現宮号の宣下‐家綱綱吉時代の平穏‐熊沢の京幕軽重意見‐山鹿素行の兵学‐綱吉の人格‐ 綱吉の奨学‐綱吉の忠言‐綱吉の京都尊崇‐綱吉の犬公方‐家宣と近衛太閤‐君美と信篤の失敗‐家宣家継時代の惰力泰平‐吉宗の謙譲‐吉宗の興学殖産‐吉宗の京都尊崇‐文学に対する吉宗の本領‐吉宗の心事に対する諸説‐吉宗の子孫繁栄‐家重時代の勤王論‐竹内式部の勤王論鼓吹‐竹内式部法衛の召喚‐垂加流進講‐ 式部の追放と遠流‐大二慷慨柳子新論を著す‐大二等奇禍に罹る‐勤王家の閉息‐家治の暗愚‐松平定信の大老職‐定信の国教振興令‐尊号事件‐定信と皇居造営‐吉宗政治の中心‐定信去りて収賄の端開く‐水野忠成の対京政略‐忠成悪政の結果‐家慶と水野忠邦‐家定時代の幕政衰弱‐米艦の入港‐朝廷国政干渉の端緒 第11章 外国条約に対する京都意嚮の変遷 622 条約締結権の所在に惑ふ‐外人に対する上下の苦痛‐林大学及津田半三郎の意見書‐万里小路の攘夷論‐林津田に対する京都の示命‐所謂水藩の建白京都を動かす‐堀田備中の上京と答書‐条約不許可の勅命‐堀田躊躇関下を去らず‐ハルリスの警告と井伊の決心‐水戸斎昭の井伊対抗‐条約調印京都への報告‐条約に対する諸大名の建言‐ 3藩登城井伊へ誥問‐京都に対する井伊の分疏‐水藩へ勅書降下‐井伊最後の手段‐勅諚の緩和‐間都の搏●政策‐勅書取戻に関する幕府の苦心‐幕府第2の違勅‐久世安藤の共同内閣‐三条姉小路東下‐攘夷派の得意‐薩長の暗闘‐長州藩論の一変‐慶喜の弥縫策‐将軍家茂の上京‐攘夷期日決定‐3奉行の憤慨‐長藩の外船砲撃‐砲撃責任の所在如何‐ 人物実力幕府を去る‐彼我武力の試験‐外船打払は賤臣の登竜門‐長藩幕船を撃つ‐攘夷派の不首尾‐長藩攘夷旗職の変状‐長州勢力失墜の原因‐攘夷説の緩和‐攘夷説変じて鎖港説となる‐将軍の上洛と薩藩の勢力‐世に云ふ反覆の綸旨‐暗黒時代の真相‐外艦砲撃媾和の条件‐妄挙に酬るに妄挙を以てす‐長藩蛤門の変‐長州征伐の命令‐ 将軍長藩親征‐長防討伐部署‐第1回征長軍の撤退‐長州正義派の活躍‐長州征伐の再挙‐長藩の決意と幕軍の躊躇‐幕府の宣告と毛利家の抗拒‐幕軍忽ち敗る‐長防処置寛大の勅詔‐松平容堂の還政勧告‐大政返上と毛利官位復奮‐外国使臣の同情幕府を去らんとす‐9隻の外艦神戸入港‐京都の妄断将軍の辞表‐ 将軍の上奏諸藩の評議‐一橋慶喜と小笠原閣老の決心‐条件付の条約勅許‐兵庫大阪の開放と伯耆守謀判の証書‐伯耆守冒険策の成功‐慶喜の兵庫開港上奏‐大原等の頑説京都を動かす‐慶喜再度の上奏‐兵庫開鎖2派の争論‐兵庫開港の勅許‐京都の鎖攘説は終始一貫‐尊攘説と政権の統一 第12章 国王大君名義の争論 735 国王の信書と臣下の答書‐大君の称を朝鮮に伝ふ‐雨森と新井との衝突‐安政条約日本代表者の称号‐累代の将軍王号を用ひず 第13章 暗黒時代の3使節 742 幕府大名政治上地位の?倒‐条約批准使節米国派遣の理由‐幕使米国に歓迎せらる‐政界の変状と幕使の帰朝‐所謂浪人勢力時代‐開港開市延期使節派遣の理由‐安藤とハルリスの親善‐仏使の助言安藤急場を免る‐石見守一行英艦に搭じて出発す‐安藤の遭害と英使の同情‐英国女皇謁見の不許可‐英政府の延期承諾と交換条件‐和蘭以下3国歴訪‐樺太境界問題‐延期使節の帰朝と政治舞台の一変‐攘夷切迫と将軍の仮病‐薩州の強硬幕府の苦痛‐古今無比の奇政況‐ 一橋慶喜の辞表‐攘夷期限幕府へ一任の建言‐入京差止と志士の勦捕‐攘夷厳重の御沙汰‐横浜鎖港談判と理由‐鎖港使の出立と将軍再度の上洛‐不得要領の勅答文‐久光鎖港使の非を論ず‐鎖港不可説に対する慶喜の態度‐鎖港使派遣に関する英使の反対‐鎖港使英使の一喝に遇ふ‐3世拿破翁鎖港の非を説く‐鎖港使帰途に就く‐巴里の廃約‐使命2様の使ひ分け‐帰朝の鎖港使罰せらる‐鎖港使の報告書 第14章 治外法権及条約改正 790 治外法権の淵源‐外人に対する我法権の伸縮‐文明と法律の程度‐ペルリ条約に治外法権なし‐治外法権条約書に現はる‐治外法権用上の不利益‐内地旅行と領事裁判‐使節欧米派遣‐条約改正は要求にあらず希望なり‐使節の目的変更‐条約改正委任は不許可‐欧州諸国の条約改正反対‐新法律の制定‐井上条約改正案‐伊藤内閣の死活問題‐保安条例の発布‐伊藤内閣倒れ黒田内閣成る‐後藤の反対運動と改進党の対抗‐ 御前会議と無期延期‐陸奥宗光の最終成功‐内外人訴訟手続‐米国領事水兵を庇護す‐伊領事と銃猟違犯者‐英領事と英人ボルヴィス‐英領事と憐れむべき貧民‐独逸人の不法営業‐居留地は邦人の魔窟‐対外硬派起つ‐横浜居留地外人の条約改正反対‐条約改正実施の準備‐外人竜駕を迎ふ‐横浜市の条約改正祝賀会‐外人家屋税問題‐外人の主張‐日本政府の主張‐仲裁裁判‐登録税の免除と還付‐外人逮捕規則 第15章 幕末の陸海軍 845 陸軍教授仏人雇入れ‐横浜に兵営建築‐仏国陸軍教授の解雇‐我国海軍の曙光‐阿部閣老の海軍創設意見‐長崎の軍艦製造伝習所‐邦人始て軍艦を造る‐伝習生和蘭に派遣せらる‐水薩2藩の軍艦建造‐封建制度は海軍創設の妨害‐海軍創設時代蘭仏両国との関係‐海軍伝習生を英国に依頼す‐海軍教官到着と同時に解雇 第16章 仏教 861 神儒仏教と耶蘇教‐政権宗権の争は東西相同じからず‐仏教に対する家康の心事‐家康の宗法制定‐関東寺院と京都との対抗‐西教防禦の任務‐徳川時代には識見卓越の僧なし‐鎌倉時代宗教の衰微‐神儒同盟仏教排撃‐太政官符梵鐘廃止‐智恩院及輪王寺宮の歎願‐漢学者の活動‐仏教信仰の血統相続‐信仰自由の憲章‐寺院僧侶の数‐仏教の今昔‐神仏分離政教一致‐三条実美の宣教長官‐俳仏毀釈の実行‐教部省の設置と三条教則の発布‐神道者の跋扈僧侶の閉息‐政教分離と教部省の廃止‐教導職廃止と宗制寺法の編成‐宗教本来の地位確定 第17章 耶蘇教 896 ピントーの来朝‐ザヴィールの来朝‐ザヴィール宣教の偉績‐殺伐酷烈の宣教手段‐秀吉の西教排斥‐家康の西教排斥‐家光の西教排斥‐天草西教徒の騒乱‐援を蘭人に借りて島原を攻む‐外兵引入の責任者‐蘭人援軍の報酬‐耶蘇教徒跡を絶つ‐ハルリスの信仰自由主張‐日本製の竹篭と耶蘇教‐横浜開港後最初渡来の宣教師‐西教信者30人の捕縛と仏使の抗議‐耶蘇教徒の条件付放免‐邪宗門の紛論‐外教信者3000人の遠隔‐耶蘇教禁礼の撤去‐西僧の増加‐修道士ニコライ来朝‐基督教3派の本流‐基督教学校‐新旧2教の勢力‐横浜の3教会‐横浜に於る西教各派の教勢 |